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Traditional Calligraphy

書線の比較からみる作品をつくる上での選択

王義之の線というのは筆の意思(動き)が自然に作り出すときに出来る動きからくる線美を字形にするうえで突き詰めたラインにより形成され、より自然に無理と無駄のない中で生み出される究極のラインの一つだといえる。一方で井上有一の線というのは本人がこの線をここに生み出すんだという意志のもと引かれ形成されたなかに作り手の意思を垣間見る事で感じるといえる。


言い換えると、テクニック(デザイン)と意志(線を思いとして扱う)このどちらの領域を作品として出したいか、ここに書の作品を作るうえでの2つ切り口からの方向性をみつけることができる。

一つとして、ひきたい線を引く場合に稽古でつちかったテクニックに落ちるに偏りがちだがそれ砕き、無心と解放、稽古での鍛錬の枠を崩し逸脱した中で新たな面白味を生み出す有一先方。

反対に王義之先方は、稽古と鍛錬により生み出された線(古典のデザインに忠実なライン)これを道具として字形を形成させる。


この両者を考えるにいたったには日本語を字としても学習中の人が書す作品(外国人で日本語の字形を把握に至ってない人)に書作品を制作させその鑑賞をするなかで見えてきたものである。

例として3点の字「あ、し、ろ」の画像を見てもらいたい。これらはいわば有一の線がだす力強い意志とおなじように線に感じられる-筆で墨をここに乗せるという決意を見せた線。一方下段の「あ」は筆の意図した線からなるといえる。 両社の違いがまさに王義之(古典の書)と有一(作り手の意思を表面化させた書)両方のタイプの作品作り方の違いといえる、どちらを選ぶもその作家のその作品により生み出せばいいといえるけれど、鑑賞はデザインと意志このどちらを見るかによって選択もちがってくるのかもしれない。​

統制、規律、道徳観=文字と人のこころ=デザインと行動の管理

書道が小学校教育で必須である理由。

この文化と人間性のスキルを文字を書く行為であるぶぶんとして管理されてきた点は感じていて、今後日本でも移民が増えた場合の日本で小学校教育を受けていない人との倫理観のずれを書道、茶道、武道をはじめとした道事の精神が補う事が出来るとおもう側面は、言葉はもちろんもっとも重要なツールではあるけれど、この心のジャッジのずれを埋める事については、「あいうえお」をテキストとしながら書道はその部分をになう余地があると感じている。


もう一つ触れておきたいことがある。それは、書道をするうえで古典は勉強しないという結果に行ってほしくないという点。それは、古典の書道(日本の文字の指導者)として一端は時間はかかるけれども鍛錬にも挑戦してほしと伝えておきたいからである。これは書道の稽古はテキストと同じ線を作るという訓練をする中で書を鑑賞する場合に生かされてくるからという点も触れておきたい。それは書作品を見る場合に、頭で見る内容(作品に出る線)と同一の動きを作ることを鑑賞時に楽しむ(感じることができるようになる)という事が言え、それは言葉をかえると作り手の筆の動きリズムを頭で描けるという楽しみが生まれるという事。一つとしてひきたい線を引く場合に筆を操るテクニックがふえるという理由だけではないという事、鍛錬の楽しみの先にはそういった鑑賞のスキルアップが培われることも理解して稽古と向き合ってほしいと感じている。
そして最後に、音楽家は鑑賞者の心を癒すことができ、この部分において音楽に勝ることはないかもしれないけれど、書の作品制作(絵や彫刻やアート制作)は作り手の心を癒すことができる。作り続ける中で感じてるこの部分も伝えておきたいと思う。

2.dec.2017

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