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よみびとしらず YomibitoーSirazu

高野切3種紀貫之伝書を長さ50mのかみの上をまる1日をかけ一気に書き上げていく。
筆が出す線は身体の動きと脳と心の連結を連動させながら生産されていく。

書は思考と心の表現を突き詰めるものが造形されている。 書き進める中で入り込む場合に生じる「無意識かつ無心」のラインにおいて心の線がでてしまう。作品という意図的かつ意識的な部分とそうでないもの。またその違い。言い方としては陰陽とでもいい。

線と流れを追ううちに「心をかいてしまっている」。空間を埋めるうちに「意識を載せてしまっている」。

「文字という意思伝達の手段の言葉」を超えたところの書き手がでている。その2つは1つの中に混在しているように生み出された書の中で存在する。

書道の本来の憎らしさはそこにも見出すことができる。 

字形を眺めるとラインはそのときの書き手の「リズムをつたえている」 臨書という事を書道では永遠と実施する、そう修行のごとく臨書(書いてあるラインを読みまねる/書いてあるリズムや作品感をまねてかく)これを長年続けるうちに見えてくるものがあるとすると「思考」「心」このあいまいな2つが見えてくる。そしてソレが見えれば見えるほど自分がさらけ出されていることが理解できる。書によって「インプット」と「アウトプット」、作り出されたものとの「対話」ができる。 人でなくてもいい、それが「どう感じているのか」という事も信号的なものかもしれないとおもう。 結果、書のリズム感、素直さ、強引さ弱さ、スピード感、白黒のラインを臨書するたったこれだけの作業で、その先のものがあるみえてくるそこが本来の書の面白みと進化できる点。 書がわかりにくくも、退屈なような「臨書」をするのは、ことでこの感覚を上げることが出来るからという方向をもっている。

服の生地やダンスのライン、音のライン、空間・幅、それらすらも人間の心との翻訳とそれを読む中でこの書の臨書で培う筆が作るリズムパワー・デザインと心の二面性を区別するたすけになってくる。
また一気に書き上げるここにも理由はひそんでおり、臨書で個人が残した文字からその生きたを筆の作った線のリズムからの力加減にいたるまで生をまねるこれにより故人とリンクするその必要がある。故にこの作品では一気に仕上げるその必要性を作品としている。


個展開催にあたり作家とギャラリーの印を変体仮名にてELワイヤーにてしたためる。 ※http://232323.biz/056.html

Febuary.2017-inabanousagi


新しい紙に描く、描いては引っ張って又描く、私の場合はロール状の紙を伸ばしながら描くスタイルだった、それに文字の意味はこの時意識から完全にそれていたという点とつぎつぎ描き伸ばすかく又描きのばすそれが繰り返され永遠にのびつづけるようなこの感覚は石田さんがお話になっているよう、私もかんじていたのは確かで「新しい白(紙)と描き伸びた作品」あの高揚感、この作業を行う時感じる事ができるのだろう、まさかこの作業を他で試す人がでてきて話してくれるとは、私一人じゃばかげたその試みにも。 

途中で紙が切れとこの引っ張る作業があり「スライダーがほしいな」と思いはあったもののスーッと新しい紙が、白い面が作られる爽快感も加え感じた。


永遠を切り取る作業 「may.2018.追記」

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